この記事では帝国議会の仕組みについて解説します。
大日本帝国憲法では天皇主権により帝国議会は天皇の協賛機関となっていました。
協賛とは天皇が法律や予算を成立させる際に、事前に帝国議会が与える同意のことです。
帝国議会が審議した内容を天皇が成立させるというものだったのです。
今回は帝国議会の仕組みについて解説します。
議会が開かれるきっかけとなった自由民権運動に関しては、『自由民権運動とは?板垣退助を中心人物に政府を批判した政治運動。』の記事をご覧ください。
帝国議会とは?
立法機関で公選議員からなる衆議院と皇族、華族、勅任議員からなる貴族院の二院制
帝国議会は衆議院と貴族院の二院制をとっていました。
両院の権限は、衆議院の予算先議権を除いて対等でした。
衆議院は制限選挙による唯一の国政機関でしたが、予算先議権を持つ以外は貴族院と対等であり、国民代表の議会としては十分ではありませんでした。
制限選挙とは1925年の普通選挙が制定されるまで、納税額により選挙権が与えられていた事を言います。
1890年7月に第1回衆議院議員選挙が行われ有権者は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子で、
有権者はわずか全人口の1%程度でした。
第1回選挙では300人の議員が選ばれましたが、130人が立憲自由党、41人立憲改進党からでした。
貴族院は憲法発布と同時に貴族院例が公布されました。
皇族、華族、勅撰議員、多額納税議員などで構成されました。
勅撰議員とは?
満30歳以上の男子で国家や君主に尽くした功績がある者、もしくは学識経験者から政府の推薦に基づき天皇が任命する議員。任期はない。
勅撰議員と多額納税者議員を総称して勅任議員と呼びました。
華族とは従来の公卿や藩主や国家的功労者に対して与えられた爵位です。
1884年に設けられた天皇制を補完するための制度で公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5爵の位がありました。

初期議会は超然内閣
現代の政治制度では、国会と内閣の関係は連帯責任となっています。
選挙で国会議員を選出して衆議院の与党から内閣総理大臣を選びます。
しかし、帝国議会の初期議会では、内閣は天皇の任命により成立していました。
つまり、議会との関係せはまったくなかったのです。
そのため衆議院と内閣が対立する構造が長らく続いていたのです。
1894年の日清戦争後から徐々に国会と内閣の連携が取れるようになり、
大正デモクラシーにより政党政治が行われるようになって衆議院の立場が強くなりました。
その後は1930年代に入ると軍部の台頭により議院内閣制は維持できなくなりました。

まとめ
この記事では帝国議会について解説しました。
帝国議会は衆議院と貴族院からなる二院制を取っていました。
衆議院は臣民の選挙で選ばれましたが、制限選挙で国民の意思を反映しているとは言えませんでした。
初期の議会では内閣は天皇の任命により成立していたので議会との連携は取れていませんでした。
天皇大権に関しては以下の記事をご覧ください。