この記事では砂川事件と伊達判決について解説します。
日本国憲法の9条では、戦争の放棄、戦力不保持、交戦権の否認を定めています。
砂川事件は、日本に駐留している米軍は憲法が掲げる「戦力不保持」に違反していないか?という論点の事件でした。
憲法9条に関しては『憲法9条とは?わかりやすく解説。改正や自衛隊の解釈について。』の記事をご覧ください。
砂川事件とは?
1957年7月東京都下砂川町の米軍立川基地の立ち入り禁止区域に入った、7人が刑事法違反で起訴された事件
1955年頃から米軍は日本政府に対してジェット機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の飛行場の拡張を求めていました。
拡張工事の知らせを受けた砂川町の住民たちは、立川基地の拡張に対して猛反対をしました。
住民は「砂川基地反対同盟」の結成を行い、決起大会を開くまでに発展しました。
その後、砂川町の町ぐるみで反対運動が起きたことを砂川闘争と言います。
近隣の労働組合も砂川町の運動をサポートして、社会党や労働者農民党までもが支援するまでに発展しました。
日本政府は立川基地の拡張に向けて、近隣の測量実施を開始しましたが、デモ隊は必至に測量を阻止。
警察とデモ隊が衝突して1,195名が負傷する事件となりました。
その一連のデモの中で、1957年7月に測量阻止のデモ隊が立ち入り禁止区域に立ち入ったとして、
7名が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴されたのです。これが砂川事件です。

伊達判決とは?
1959年3月に東京地裁の判事である伊達秋雄が出した砂川事件の第一審判決
第一審判決にて、伊達秋雄判事は無罪判決を言い渡しました。
日本に駐留するアメリカ軍は憲法第9条で禁止する戦力にあたるという憲法判断を下したのです。
日本は日本国憲法の第9条にて「戦力の不保持」を規定していますが、駐留米軍はそれに違憲であるという趣旨の判決です。
これが伊達判決です。
日本とアメリカの安全保障条約は1951年に締結されていましたが、
アメリカ軍の日本駐留と日本防衛を無期限に認めたものであったため、当時の岸内閣は片務的ではなく、相互防衛的な条約に改定しようと動いていました。
安保改定問題は事実上の「日米軍事同盟」であるとして野党だけではなく国民を巻き込んだ反対運動となったのです。
有名な安保闘争です。
伊達判決は当時の安保改定問題に大きな波紋を及ぼしたため、検察側は慌てて跳躍上告を行いました。
跳躍上告とは?
第一審の判決に不服がある場合は「控訴」を行い、第二審に進みますが、刑事裁判の場合、第一審裁判所の判決に対し、その判断を不当として控訴を経ず直接最高裁判所に申し立てを行うことを跳躍上告と言います。
法律・命令・規則・処分が憲法違反であるとした判決にて跳躍上告が可能です。

砂川事件の結末
検察側は慌てて跳躍上告を行い、最高裁判所に判断を求めました。
最高裁判所は、憲法9条は日本が持つ自衛権を否定しているものではないとして、憲法9条が禁止する戦力というものは、日本が指揮・管理する戦力であるため、外国の軍隊は戦力に当たらないとしたのです。
つまり、アメリカ軍の駐留は憲法違反ではないという判断です。
最高裁は地方裁判所に差し戻し請求を行い、罰金2,000円の刑が確定しました。
砂川事件に関しては2008年~2013年頃にアメリカが機密指定を解除した公文所から新たな事実が多数わかりました。
当時の駐日大使のマッカーサーは伊達判決を受けて、すぐに跳躍上告を行うように日本側に圧力をかけていた事がわかりました。
これは司法権の独立に揺るがすものとして、対米追従の様子が明らかになった出来事でした。
その後、米軍は東京都福生市の横田基地に一本化する事にしました。
1977年11月30日に立川基地は返還されて、跡地に昭和記念公園や防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地ができました。

まとめ
この記事では砂川事件と伊達判決について解説しました。
砂川事件とは立川基地の拡張に反対したデモ隊が立ち入り禁止エリアに侵入して刑事裁判にて起訴された事件です。
第一審では米軍の駐留は憲法9条に違反するとして、7名を無罪にしましたが、最高裁にて有罪となりました。