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枢密院とは?わかりやすく解説。天皇の最高諮問機関。

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この記事では枢密院について解説します。

伊藤博文は大日本帝国憲法の草案を作成するにあたり、各国を訪れて調査しました。

グナイストやロエスレルなどの外国人法律家の意見を参考にして、憲法の草案に当たりました。

伊藤博文らが憲法の下書きを作成して、下書きを実際に形に変えていくために設置したのが枢密院なのです。

 

大日本帝国憲法に関しては、『大日本帝国憲法の特徴をわかりやすく。伊藤博文はドイツ憲法を参考にした。』の記事をご覧ください。

 

枢密院とは?

憲法に規定された天皇の最高諮問機関

枢密院は元々、大日本帝国憲法を作るときに1888年に設置されました。

憲法発布後も天皇の諮問機関として残ったのです。

諮問機関というのは天皇が政治的な決定事項などを行う際に、枢密院に相談したり意見を求めたりするための機関という事です。

そのため枢密院は政治的長老や行政経験者などのベテランから構成されました。

 

憲法付属法令の改正などに関しては、事前に枢密院に相談することが求められ、

重要な国政の運営についても、事実上政府の行動を制約するような役割を果たしていました。

そのため大きな政治的権力をふるっていました。

初代議長は伊藤博文です。

 

枢密院は国政に対して強い権力を持っていたので、大正デモクラシー時代の政党政治においても藩閥や官僚が強い発言権を持っていました。

しかし、1930年代以降の軍部の台頭から枢密院は徐々に力を失っていきました。

 

管理人
枢密院は政府とは完全に独立した機関だったんだね!

 

枢密院の仕組み

枢密院は政府から独立した機関ですが、議長が天皇が必要とした時に議会が開かれていました。

議会という名前ですが、国民の意見を取り入れるわけではなく内閣に対する干渉を行うための話し合いがメインでした。

 

議長と副議長は1名。

顧問官は24~28名。書記官長1名と書記官3人で組織されていました。

顧問官には40歳以上で経験のある人だけが選出されました。

 

枢密院は皇室典範や憲法の改正に関する事項や、条約改正、緊急勅令、戒厳の実施など

まさに天皇が持っていた権利を実行する際に相談するための機関として機能していました。

天皇大権に関しては、『天皇大権とは?わかりやすく解説。統帥権の独立についても。』の記事をご覧ください。

 

管理人
まさに天皇の相談機関って役割だったんだね!

 

内閣と枢密院の対立

枢密院は天皇の相談役としての諮問機関でしたが、国政に対して強い発言力を持っており、

内閣と衝突することがありました。

 

〇台湾銀行救済の拒否

1927年に「鈴木商店」という商社が金融恐慌により倒産しました。

鈴木商店の融資を実行していた台湾銀行が膨大な負債を抱えてしまう事となり、

政府は経済への影響を考えた時に台湾銀行を国費で救済する特別な命令を出そうとしました。

しかし、枢密院はこれを拒否。

台湾銀行だけ特別に救済するのは平等の観点から納得できないと枢密院は考えたのです。

枢密院の否決により内閣が総辞職するという事態になりました。

 

〇統帥権干犯問題

1930年にロンドン海軍軍縮会議にて日本は軍縮を決定します。

しかし、軍に関する権利は天皇が持っているはずなので、内閣が勝手に軍縮を決定したことに対して野党や枢密院、そして軍部が反対をしたのです。

統帥権とは天皇に備わっている陸軍・海軍に関する指揮権の事で、内閣は統帥権を犯していると見なされたのです。

結果として当時の内閣総理大臣の濱口雄幸は右翼団体の少年に刺殺されてしまいました。

枢密院にとっては結果として軍部の意見を擁護する形になり、その後の軍部の台頭に繋がります。

 

管理人
枢密院が国政に口を出すことがあったわけだね!

 

 

まとめ

この記事では枢密院について解説しました。

枢密院とはもともとは大日本帝国憲法の作成のために設置された機関でしたが、憲法発布後も天皇の諮問機関として機能しました。

政治的長老や行政経験者から構成されていて、政府に対して強い発言力を持っていました。

機関としては政府とは完全に独立した機関です。

台湾銀行救済問題や統帥権干犯問題の時に枢密院は政府に対して強い発言力を行使しました。

1930年代以降は軍部の台頭により影響力を弱めます。1947年に枢密院は廃止されました。

 

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