憲法

私擬憲法草案とは?わかりやすく解説。植木枝盛の日本国国憲按が有名。

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この記事では私擬憲法について解説します。

1868年に江戸幕府が崩壊してから、1889年に大日本帝国憲法が発布されるまで約21年間の期間があります。

江戸幕府崩壊後は、薩長出身者を中心とする藩閥政治が行われましたが、

次第に憲法の制定や国会の開設、天賦人権を求めて自由民権運動が1874年頃から始まります。

自由民権運動を推進した人達は、『憲法は国民の会議によって制定されるべきだ』という考えを持っていたのです。

これが私擬憲法の始まりです。

自由民権運動に関して詳しく知りたい方は、『自由民権運動とは?板垣退助を中心人物に政府を批判した政治運動。』の記事をご覧ください。

私擬憲法とは?

大日本帝国憲法制定前に起草された民間による憲法の私案

明治新政府により憲法の制定に平行して、自由民権派によって私擬憲法が作成されました。

現在、見つかっている私擬憲法草案は50種類以上あるとされています。

草案とは?

文章、特に規約や法律などの下書きや原案のこと。

私擬憲法の作成が本格的に開始したのは、国会期成同盟が1881年に憲法の私案を持ちよろうと決議したことです。

国会期成同盟は1880年に結成された全国団体で愛国者より発展しました。

国会期成同盟は政府の国会開設の請願書を提出するなど積極的に活動していました。

 

全国から私擬憲法が作成され、中でも本格的だったのが植木枝盛による『日本国国権按』です。

植木枝盛の『日本国国権按』では国民主権や一院制議会、政府に対する抵抗権の保障など、私擬憲法の中では最も民主的なものとしっていました。

政府に対する抵抗権に関しては国民の革命を肯定する規定も載せられていました。

東京の五日市(現在のあきる野市)の自由民権運動家である千葉卓三郎が起草した

「日本帝国憲法」も国民の権利の保障に力点を置いた現在の憲法に近い草案も含まれていました。

 

当時、伊藤博文はドイツの憲法を支持していました。

大隈重信は伊藤博文に政府を追い出されたわけですが、ドイツ憲法を支持する伊藤博文を批判していました。

 

実は、国会期成同盟が私案を持ち寄って私擬憲法を公にした理由には、

国民の意見が反映された私擬憲法を公にすることで、明治政府が自分勝手な憲法を作らないようにするというけん制もあったそうです。

 

管理人
政府の憲法制定に先駆けて、自分達で起草したのが私擬憲法なんだね!

 

私擬憲法はどうなった?

私擬憲法は1881年頃からちょっとしたブームとなりますが、数年かけて社会状況は変わっていきます。

 

明治政府は讒謗律で政府批判を禁止したり、新聞紙条例で政府批判を禁止したり、集会条例で集会を禁止したりと、

自由民権運動に対する弾圧を強めていました。

そこで、1887年には保安条例が出され、私擬憲法の検討及び作成は禁止されました。

これにより私擬憲法が政府に持ち寄られて議論の対象となる事はなく、

私擬憲法の意見は憲法の制定に影響を受けませんでした。

 

結局のところ、憲法は明治新政府の伊藤博文や伊藤巳代治、金子健太郎らによって

ドイツ憲法を参考にしてエスレルらの提出した「日本帝国憲法草案」が採用されました。

 

管理人
私擬憲法が考慮されることは無かったんだね!

 

まとめ

この記事では私擬憲法について解説しました。

私擬憲法とは大日本帝国憲法の制定にさきがけて民間で出された私案です。

国民主権や政府への抵抗権、人権の保障など現代の日本国憲法に似た部分も多くありました。

私擬憲法を公にすることによって明治政府が勝手に憲法を作ることを阻止する狙いもありましたが、

保安条例で私擬憲法の作成は禁止に。

結局、大日本帝国憲法は明治政府の伊藤博文らを主導に草案が作られました。

 

 

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