この記事ではゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチについて解説します。
1956年にフルシチョフにがスターリン批判を行いました。
ロシア革命以降、共産党の一党独裁政治が続きスターリンは共産党に反対する人民を粛正と称して殺害しました。
フルシチョフはスターリンを批判したことで世界に衝撃を与えましたが、スターリン批判以降も
ソ連の経済と政治は硬直状態が続いていました。
社会主義の行き詰まりを感じていたゴルバチョフは1980年代に入り、硬直を打破するためにペレストロイカ改革を進めたのでした。
今回はゴルバチョフのペレストロイカ改革とグラスノスチについて解説します。
ペレストロイカ改革とは?
ゴルバチョフが行った立て直し政策の総称
ゴルバチョフは国内では、言論の自由化、情報公開、複数政党制の導入などの民主化を進め、
対外的にはデタント(=緊張緩和)と軍縮政策の新思考外交を展開しました。
1980年代のソ連は西側陣営と比べると経済の停滞は明らかだったのです。
ゴルバチョフは社会主義体制を否定してわけではなくて、
今までの計画経済を絶対的な物と考える風潮を改め、市場経済の導入を目指す改革を実施したのです。
市場経済とは?
財・サービスを市場で自由に売買することにより、需要と供給のバランスにより効率の良い市場を目指すこと
ソ連では計画経済の下、生産手段をすべて中央で管理していました。
どれだけ生産をするか?どの価格で流通させるか?
が予め決まっていたため、儲からないビジネスもまかりとおり、もっと儲かるビジネスも生産が抑えられてしまっていたのです。
ゴルバチョフは一部、民間に事業を許可したり、利益を生まない産業を手放したりして
資本主義を一部採用していったのです。共産主義の思想からはかけ離れた政策です。

グラスノスチとは?
「情報公開」の意味。秘密主義を廃して、開かれた政治や経済を展開しようとした政策。
グラスノスチとはゴルバチョフがすすめていたペレストロイカと表裏一体をなすものです。
ゴルバチョフはグラスノスチを重要な柱と考えていました。
共産党は新聞などのマスメディアに対して、報道の自由を与え、それまで秘密主義にしていた国家の情報や軍事情報を公開して、国民の「知る権利」に応えるようになったのです。
グラスノスチの目的は開かれた政治や経済を展開するためのものでした。
特に1986年に起きたチェルノブイリ原発事故では、
事故が起きたことがゴルバチョフの耳にすぐに入ることはなく、国民に情報が届かなかったために被害が拡大してしまいました。
グラスノスチにより今までソ連が隠していた重要な情報が明らかになるのでした。
特に1939年の独ソ不可侵条約に付属する秘密議定書の存在が明らかになり
バルト三国は激しく反発しました。その結果、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立を宣言。
ソ連は急速に解体の方向に向かっていったのです。

ペレストロイカの結果
共産党一党制の否定と経済面での失敗で国民の不満。ソ連崩壊
ペレストロイカを実現するためにゴルバチョフは改革派を登用する人物を多く配置しました。
しかし、既得権益を守ろうとする共産党保守派の抵抗があり、ゴルバチョフは政治まで改革を行われなければなりませんでした。
その流れでグラスノスチに踏み切ったのです。
1989年3月にはついに複数立候補によって人民代議員選挙が行われて、
90年には長らく続いた共産党の一党独裁体制は崩壊しました。そして大統領制を導入してゴルバチョフが初代大統領に就任したのです。
しかし、経済面では計画経済を完全に捨てきることができず、自由経済の導入も不十分なものだったため
モノ不足から物価は上昇して1989年には国民の生活を打撃してペレストロイカ経済政策は失敗に終わりました。
結果、ゴルバチョフは大統領を辞任して保守派はクーデターを企てるもあっけなく失敗。
ソ連は崩壊へと向かうのです。

まとめ
この記事ではゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチについて解説しました。
ゴルバチョフはそれまでの社会主義体制による計画経済の反省や、西側陣営に経済面でも追いつくためにペレストロイカ政策を行いました。
計画経済を反省して、一部資本主義を導入しましたが経済面では失敗。
政治面では共産党の一党独裁制に終止符を与えましたが、グラスノスチによる情報公開で政治は不安定に。
バルト三国が独立を宣言して、ソ連は崩壊へと向かうのでした。
ソ連の崩壊と独立国家共同体について以下の記事をご覧ください。