この記事では満州事変について解説します。
1925年に普通選挙法が制定されて、衆議院選挙にて選ばれた第一党の党首が内閣総理大臣を務めるという憲政の常道が始まりました。
しかし、金融恐慌から世界恐慌と長らく不況の中で、軍部が台頭して政治権力を掌握するようになります。
その流れで起きたのが満州事変でした。
満州事変とは?
日本の関東軍による柳条湖事件によって開始された中国東北部への侵略戦争
柳条湖事件は1931年に起きました。
柳条湖事件は満州鉄道爆破事件とも呼ばれ、日本の関東軍が満州鉄道の爆破をでっちあげて中国軍のせいにしたのです。
これを口実にして関東軍は満州にある中国軍を攻撃して占領しました。
これにより関東軍は満州を占領して、満州国を建国したのです。
南満州鉄道に関しての利権は1904年に日露戦争の勝利により日本が手に入れたものです。
満州鉄道爆破事件が、日本の関東軍によるでっちあげという事がわかると
日本は各国から猛烈に批判されることになります。そして日本は1933年に国際連盟を脱退しました。

満州事変が起きた理由
満州事変は日本の政府や軍首脳の承諾なく、関東軍が勝手に暴走して起こした事件です。
関東軍軍人の中枢が独自に計画して実行した事件であり、石原莞爾中佐が推進したと言われています。
1929年の世界恐慌により南満州鉄道の営業利益は悪化していました。
陸軍の中では「満蒙(=満州と内蒙古)は日本の生命線」という考えがあり、陸軍は満州を中国から分断して、満州を支配する構想を練っていたのです。
また石原莞爾は関係が悪化していたアメリカや、社会主義国家として成長していたロシアとの戦争に備えて、
満州の利権を獲得するために満州事変を起こしたとされています。
軍国主義の記事でも解説したとおり、
軍部の中には植民地を拡大して領土を広げようという考えがあったのです。
それは1929年の世界恐慌にてイギリス、フランス、アメリカなどの植民地を保有している国は、
自国と植民地とだけの貿易を行う保護主義政策を取っていたため、日本、ドイツ、イタリアなどの「持たざる国」は経済的にも大きな打撃を受けていたからです。
長らく不況から回復できない政府への不満と、ブロック経済主義を取るイギリス、フランス、アメリカなどの国々に対して、ワシントン軍縮会議でも弱気な姿勢を取っている不満が軍により爆発した形でした。

政党政治の終了と軍部の政治権力掌握
満州事変が起きた当時の第二次若槻礼次郎内閣と外相の幣原喜重郎は軍部の策略を疑っていました。
一方の軍部は満州事変に対して中国軍が起こしたものとして、でっちあげをしていましたら、
「日本の自衛のための戦争」と主張していたのです。
そのため強く否定することができず、関東軍による軍事行動を認めざるを得ない状況でした。
内閣はそれ以上の軍事行動は認めないという「不拡大方針」を閣議決定しました。
国際的な立場を考えた時に、中国軍と話し合いを行い撤兵を前提として交渉を開始するつもりだったのです。
しかし、軍部は政府の意見を取り入れず軍事行動を拡大。
南満州から北満州まで軍事行動を拡大して、若槻内閣はもはや関東軍を制御できないととして辞職したのです。
づづいて内閣総理大臣に就任した犬養毅は五・一五事件にて殺害され憲政の常道は終了したのです。
次の斎藤実内閣は軍部の圧力により、日満議定書を締結して満州国の建国を承認しました。
多くの国民は満州の権益を中国から守ったとして歓迎したのです。
軍部がこれほどまでに発言力を持てたのは、軍部大臣が現役の軍人から選出されるという
軍部大臣現役武官制という制度も原因でした。軍人が軍部大臣を務めるため内閣に影響を及ぼしていたのです。

まとめ
この記事では満州事変について解説しました。
満州事変は日本の政党政治を終わらせるきっけかにもなった重大な事件です。
関東軍が爆破事件をでっちあげて中国のせいにして満州を中国から分断させようとしました。
政府は軍の暴走を止められず、満州国を承認。
日本は国際連盟から脱退して孤立する事となるのでした。
経済的な背景としては、1929年の世界恐慌後の経済にて植民地を持たざる国である日本は植民地獲得に向けて帝国主義的な思想を強めていったという背景がありました。
軍国主義と帝国主義に関しては以下の記事をご覧ください。