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憲政の常道とは?わかりやすく解説。政党政治の慣例。法的拘束力は無し!

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この記事では憲政の常道について解説します。

1880年代に自由民権運動により人々は政府に国会の開設と民選による選挙を求めました。

1889年に第1回帝国議会が開かれましたが、貯前内閣と制限選挙であり民主主義が実現しているとは言えませんでした。

大正時代(1912年~1926年)に入り人々は自由主義や民主主義を求め大正デモクラシーという風潮を起こします。

憲政の常道とは大正デモクラシーの流れで起きた現象なのです。

 

帝国議会に関しては『帝国議会とは?仕組みをわかりやすく解説。衆議院と貴族院の二院制!』の記事をご覧ください。

憲政の常道とは?

衆議院で第1党となった政党の党首に内閣総理大臣として組閣命令が下されるべきという慣例。

憲政の常道は1924年の加藤孝明内閣から1932年の犬養毅内閣までの慣例を指します。

 

それまでの内閣は超然内閣であり、藩閥政治として批判されていました。

超然内閣とは?

内閣が天皇の任命により就任すること。つまり議会とは関係性がまったくなく、議会と内閣が対立することが多々ありました。

現代の日本の政治では議院内閣制が確立されているため、

選挙で第一党となった党から内閣総理大臣が誕生しましが、初期議会では内閣は議会から独立していました。

そのため、明治維新で功績のあった薩長出身の有力者が内閣総理大臣に就く事が多く、そういった体制への批判から大正デモクラシーが激化していきました。

民意は衆議院議員選挙を通して反映されるものなので、衆議院議員選挙にて第1党となった党首が内閣総理大臣になることがふさわしいという風潮から憲政の常道が生まれました。

仮に内閣が失政により総辞職した場合は民意が反映している第二党から総理大臣を選びます。

憲政の常道は議院内閣制が制度化されたわけではなく、あくまで慣例として続きました。

 

管理人
憲政の常道はあくまでも慣例であって、法定拘束力はなかったんだね!

 

憲政の常道の終わり

憲政の常道は犬養毅が暗殺された五・一五事件にて終わりを迎えました。

 

1924年から始まった憲政の常道は民主主義を実現する強力な制度として定着するかと思いきや、恐慌には勝てなかったのかもしれません。

日本は1919年まで続いた第一次世界大戦の好景気とは一変して1920年代には不況になりました。

欧米諸国よりも金制度の復活にも遅れを取り、1923年には関東大震災の影響で大量の手形を発行。

1926年には金融恐慌が起こり、追い打ちをかけるように1929年に世界恐慌が起きます。

 

このように景気が悪くなると、議会政治を無視した暴動が起きるようになります。

1924年 加藤高明内閣 首相の病死
1926年 第1次若槻内閣 昭和金融恐慌の処理問題
1927年 田中義一内閣 張作霖爆殺事件の処理問題
1929年 浜口雄幸内閣 テロリストの銃撃による負傷
1931年 第2次若槻内閣 満州事変の処理問題
1931年 犬養内閣 首相暗殺

せっかくはじまった政党政治により憲政の常道も1931年の五・一五事件により終わりを迎える事となったのです。

 

まとめ

この記事では憲政の常道について解説しました。

憲政の常道とは大日本帝国憲法下で、一時的に運用されていた政党政治の慣例です。

衆議院選挙で選ばれた第一党となった政党の党首に内閣総理大臣として組閣命令が下されるべきという慣例です。

憲政の常道はわずか8年しか続きませんでした。

せっかく大正デモクラシーの風潮で民主主義に近づいた日本の政治ですが、恐慌と軍部の台頭には勝てませんでした。

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