この記事では自由民権運動について解説します。
1868年に江戸幕府が倒れて天皇を主体とする王政復古から1889年の大日本帝国憲法の発布までに21年の月日があります。
この期間は江戸幕府を倒した薩摩藩や長州藩出身の武士が明治政府の中で実権を握っていました。
武家政治で専制的だった江戸幕府が終わったとはいえ、突然近代的な国家になるわけではありません。
この21年の期間に憲法の制定や国会の開設した運動を自由民権運動を言います。
今回は自由民権運動について解説します。
自由民権運動のはじまり
〇自由民権運動とは?
板垣退助を中心人物として、憲法制定、国会開設、天賦人権を主張した政府を批判した政治運動。
まず自由民権運動が激化した背景です。
明治新政府の樹立後、明治政府はほとんど薩摩藩と長州藩出身の武士によって実権が握られていました。
薩摩と長州はそれまで犬猿の仲でしたが、坂本龍馬の仲介を経て同盟を結び江戸幕府を倒した際に大きな功績があったからです。
明治政府は薩摩藩と長州藩出身の出身の人物が多かったのですが、
土佐藩や肥前藩出身者もいました。4つの藩の頭文字を取って、「薩長土肥」と呼ばれます。
そして有力な藩の主に武士によって運営された明治新政府は藩閥政治を呼ばれました。
藩閥政治は薩長の発言力が強く、国民の意見を取り入れない一方的な政治だったため次第に不満が生まれます。
1873年には征韓論を主張していた土佐藩出身の板垣退助、薩摩藩出身の西郷隆盛、肥前藩出身の江藤新平らが政府を去ります。
征韓論とは?
鎖国体制を取っていた朝鮮を武力で開国して制服しようとする考え。
欧米に視察にいっていた岩倉具視や大久保利通らに「海外に干渉している余裕は無い、内政重視」として反対され、征韓論は敗れる。
政府を去った板垣退助は、立志社という政治団体を設立して政府に「民選議院設立の建白書」を提出します。
民選議員設立の建白書とは明治政府に国会の開設を要求する嘆願書みたいなものです。
民選とは民から選ぶという事で、選挙により国会を開くという民主主義を主張しました。
板垣退助は積極的に演説会を行い、人々に自由や民主主義、天賦人権について説明して回りました。
こうして自由民権運動が始まったのです。
天賦事件とは?
天から与えられた人権という意味。イギリスやフランスの自然権を日本語訳したもので、人が生まれながらに持つ権利のこと。

自由民権運動の内容
自由民権運動の根本は政府を批判した政治、社会運動です。
藩閥政治に対して以下の内容を要求しました。
・憲法の制定
・議会の開設
・地租の軽減
・不平等条約
・言論の自由や集会の自由
・天賦人権
以下に主な自由民権運動の内容を紹介します。
・憲法の制定
近代的な国家は憲法に基づき政府が運営されるという考えから、自由民権運動では憲法の制定が要求されました。
自由民権運動に参加した人達は、憲法は国民代表の会議によって憲法が制定されるべきと考えていました。
そのため自ら憲法を作ろう!と1881年には国会期成同盟が私案を持ち寄ろうと決議しました。
これを「私擬憲法」と言います。
結局、大日本帝国憲法は8年後の1889年に発布されますが、私擬憲法の案が採用されることはありませんでした。
明治天皇は
・議会の開設
土佐藩出身の板垣退助は「民選議院設立の建白書」を出して国会の開設を要求しました。
肥前藩出身の大隈重信も政府により早期の国会開設を要求していましたが、1881年に起こった「明治十六年の政変」により伊藤博文らによって罷免させられてしまいます。
政府は国会開設の要求をかわすために、10年後に国会開設を約束する「国会開設の勅諭」を出します。
10年も経てば自由民権運動もおさまるだろうと考えていたのです。
しかし、板垣退助は自由党、大隈重信は立憲改進党を結成して、国会開設の備えました。

自由民権運動の激化
早期の国会開設を要求していた大隈重信が政府を去ったことにより、
政府内には自由民権運動を肯定するグループはいなくなり、伊藤博文の一強体制が取られました。
明治政府は自由民権運動を厳しく弾圧します。
具体的には1875年には讒謗律と新聞紙条例を出して、政府へ反対する勢力の勢いを落とそうとしました。
讒謗律(ざんぼうりつ)とは政府に対する一切の批判を禁止するもので、
新聞紙条例は新聞を発行する者は事前に政府への届出と許可が必要で、政府批判をする新聞は禁止されました。
自由党の急進派は政府の厳しい弾圧にテロ行為も辞さない覚悟で、自由民権運動を展開しました。
当時の日本の経済は松方デフレと呼ばれる普及により国民も政府に対して不満を持っていました。
不況や恐慌時は暴力による運動が発生しやすいのはいつの時代でも同じ事です。
生活に困窮した国民は自由党の過激派達と手を組んで数々の事件を起こしていきました。
主な内容は減税の主張や借金の帳消しを主張するものでした。
自由民権運動の最大の激化事件である秩父事件では4,000人以上が逮捕されるなど規模感が伺えます。

まとめ
この記事では自由民権運動について解説しました。
自由民権運動とは政府を去った板垣退助らを中心に憲法の制定や国会開設を求める運動です。
薩長を中心した藩閥政治に対する批判を言論によって展開した政治、社会運動でした。
不況時には自由民権運動も激化して暴力による事件も起きてしまいました。
私たちが当たり前のように持っている、憲法、国会、人権はこういった運動によって成立していったのですね。
憲法に基づき君主が国を統治する政治体制を立憲君主制と言います。
立憲君主制に関しては以下の記事をご覧ください。