この記事では1679年のイギリス人身保護法について解説します。
絶対王政期の政治体制では、君主の権力が強大で国王は法律を作ったり、税を課したり、逮捕する権利がありました。
つまり、現在では当たり前のようになっている立法、司法、行政の権利が国王に集中していたのです。
今回の記事では、ピューリタン革命から名誉革命に至るまでの間にイギリスにて制定された
人身保護法について解説します。
人身保護法とは?
国王による恣意的な逮捕を防ぐために、逮捕の理由や期間などを令状に書かなければならないことを定めた法
ピューリタン革命にてチャールズ1世が処刑されました。
子のチャールズ2世はフランスに亡命していましたが、1660年に帰国。
ピューリタン革命後にクロムウェルが軍事独裁を強行したため、子のチャールズ2世が帰国して王政復古を行ったのです。

子のチャールズ2世はフランスに亡命していた事からカトリックの影響が強く、
再び絶対王政を目指してピューリタン達を逮捕、弾圧したわけです。
これに対してイギリスの議会は国王が勝手に人々を逮捕したり、投獄したりしないように、
人身保護法を定めたのです。
1215年のマグナカルタ以来、人権を守るための立法として現在でもイギリスの重要な法律として生きています。

日本の人身保護法の規範となっている
1679年のイギリス人権保護法は1948年に日本で制定された人身保護法の規範となっています。
1948年に日本で制定された人身保護法は、不当に奪われた人身の自由の回復を目的としています。
法律上、正当な手続きにのっとらずに身体の自由を拘束されている人を
裁判所によって迅速に救済させるための法律です。
例えば、虐待により不当に身体の自由を拘束されている子がいる場合は、人身保護法にのっとり人身保護請求ができます。
夫婦関係が破綻した後の新権争いによって子が不当に奪われたとして人身保護請求が行われることもあります。

まとめ
この記事ではイギリスの人身保護法について解説しました。
ピューリタン革命後のイギリス社会もクロムウェルの独裁政治により、
自由を勝ち取ったとは言えませんでした。王政復古を果たしたチャールズ2世はピューリタンを不当に逮捕しましたが、
議会派国王の権利を制限するために、人身保護法を制定したわけですね。