この記事ではGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策について解説します。
ポツダム宣言を受諾した日本はポツダム宣言第6~7条に従い、
軍国主義者が排除され、戦争能力が失われるまでは連合国側に占拠されることになります。
ポツダム宣言では連合国側となっていますが、実質はアメリカによる単独占領でした。
この記事ではGHQが行った事や占領政策について解説します。
GHQが行ったことまとめ
GHQは日本の占領行政のために設けれらた連合国軍の最高司令官総司令部です。
マッカーサーが最高司令官に着任しました。
当初はポツダム宣言に基づく、日本の民主化政策が中心で、太平洋戦争に影響を与えた軍国主義者達を主な役職から外す公職追放を行いました。
1948年には戦争犯罪人達を東京裁判にて処刑しました。
戦前に国民の人権を厳しく抑制していた治安維持法や特別警察法を廃止して、
言論・政治活動の自由、経済に民主化などを進めました。経済の自由競争を阻害していた財閥の解体や農地改革、労働民主化などが経済面での政策です。
1948年以降になると、東西冷戦の影響から日本を「反共の砦」として、
日本の経済再建を重視する政策に変わりました。
政治面では大日本帝国憲法の憲法改正、つまり日本国憲法の制定が重要な改革でした。
GHQの占領政策は「間接統治」の形を取っていました。
間接統治とは?
一般的には宗主国が植民地を統治するにあたって、植民地以前にあった支配組織をある程度温存して、
それを利用することで植民地を統治すること。GHQは日本の日本政府を利用しながら国民を統治しました。
つまり、GHQは日本の行政機関を破壊する事なく、国民に対して直接的な統治はしませんでした。
日本政府に指示や命令を出して、従わせていました。
連合国軍は第一次世界大戦後の時にドイツなどの敗戦国に対して、
多額の賠償金を請求したことで第二次世界大戦のような無謀な侵略戦争につながったと反省していました。
そこで第二次世界大戦では賠償金を負わせるのではなく、民主化と経済再建による統治を行ったのでした。

占領政策の転換
初期の占領政策は民主化と非軍事化が柱となっていました。
しかし、ソ連とアメリカの冷戦対立が激しさを増すと、アメリカは日本を「反共の砦」として利用することにしました。
反共の砦というのは共産主義がこれ以上入ってこないためにするための防波堤の役割です。
アメリカは日本を工業国として復興させるために、資金を提供して早く復興させようとします。
さらにGHQは秘密裏にレッドパージを行いました。
レッドパージとは?
日本共産党やその支持者たちを解雇した動き。共産主義を支持する人達を公務員や民間企業から1万人以上も追放しました。
戦後すぐに治安維持法が廃止されて、戦前に逮捕されていた共産主義者達が解放されていましたが、
東西冷戦の激化により、レッドパージが行われたのです。
それほどアメリカにとっては共産主義が日本で拡大することを恐れていたのです。
さらに軍国主義者達は公職追放されていましが、公職追放を解除することである程度の右派を認めるようにもなりました。
軍事力の解体が一定の成果を見せていたので、共産主義者を追放して軍国主義者を解放していったのです。
1948年から始まった朝鮮戦争の影響で、日本にいた連合国軍の一部が朝鮮半島に移動すると
日本の空白を埋めるために、繰り上げして警察予備隊や海上保安庁も設置されました。
これにより再軍備化が実施されたのです。
GHQによる占領政策は1952年に日本がサンフランシスコ講和条約にて国家としての主権を回復するまで続きました。

まとめ
この記事ではGHQの占領政策について解説しました。
GHQは連合国軍最高司令官総司令部という連合国により日本の占領政策ですが、実質的にはアメリカによる支配でした。
当初の占領政策は日本の民主化と非軍事化でした。
しかし、アメリカとソ連の対立が強まると日本を「反共の砦」とするために、共産主義者を追放するなどしました。
日本を資本主義国として復興するためにアメリカは資金を提供しました。
朝鮮戦争が勃発すると、日本は警察予備隊や海上保安庁を設置するなど再軍備も行われました。