この記事では公民権運動について解説します。
18世紀のヨーロッパでは人々は基本的人権や国民主権を求める、いわゆる自由権への戦いをしました。つまり、国家からの自由です。
その後、政治へ参加するために参政権を求めました。そして人間らしい生活をするために社会権を求めるようになりましたが、
一部の少数派の人たちには憲法が保障している権利が与えられていなかったのです。
特に歴史的にはアメリカでの黒人の人権についての保障が実現されていませんでした。
今回は、アフリカ系アメリカ人の公民権運動について解説します。
公民権運動とは?
憲法が保障した権利の適用、実現を求めるマイノリティ(少数派)の運動全般のこと
公民権運動は広い意味では、上記のように憲法が保障している人権を少数派が求める運動のことです。
狭い意味では、黒人の対する人種差別の撤廃を求める運動を指します。
アメリカ独立戦争中の1863年に奴隷解放宣言、1865年には憲法が修正されて奴隷制度は撤廃されました。
しかし、奴隷から解放されたからと言って、翌日から白人と同様に生活ができたわけではなく、教育を受けていなかった黒人は経済的に困窮しました。
そのため黒人に対する差別は続いたのです。
特にアメリカ独立戦争の際に、奴隷制度を支持して拡張しようとしていた南部では黒人差別が激しくなり、黒人差別をする法律が相次いでしまったのです。
ジムクロウ法では、交通機関や水飲み場、トイレ、学校、ホテルやバーまで白人と黒人を分離することが合法化されました。
『分離すれど平等』という主義が取られていたのです。
黒人は職業や居住、教育などの自由を奪われてしまい、選挙などの権利を事実上剥奪される状態となりました。
そのような中で1950年代に黒人が白人と同等な権利を求めたのが公民権運動です。

公民権運動の具体的な内容
公民権運動は1950年代にアメリカの南部で自然発生的に人種差別反対の運動が活発になりました。
1954年には公立学校において人種分離は違憲だと最高裁で下されました。
しかし、人種差別が色濃く残る南部では1957年にリトルロック高校にて黒人の入学を拒否。
アイゼンハワー大統領が陸軍を派遣して、入学を拒否された9人の黒人を護衛することとなりました。
しかし、入学後、黒人は白人からの執拗ないじめにあったそうです。
1955年、女性のローザパークスがバスにて「黒人専用席」に座っていたにもかかわらず、
白人専用席が空いていなかったとの理由で、バス運転手に席を譲るように求められ拒否したところ、逮捕。
この事件をきっかけに黒人達はバスを使わないボイコット運動を行いました。
公民権運動を象徴する運動です。
若干26歳のキング牧師が主導して、暴力に訴えない非暴力抵抗運動を続けました。
黒人達の努力の結果、1956年に最高裁はバスの人種分離は違憲だと判断を下しました。
1963年にはキング牧師が全米の公民権活動家達に呼びかけて、ワシントンにて大行進をしました。
20万人以上が参加するだけでなく、公民権運動に賛同する世界的スター達も参加しました。
メリカ国内のみならず世界各国から注目を浴び、その模様は世界各国に報じられました。

公民権運動の結果とキング牧師の演説
黒人達の熱心な努力により、ケネディ大統領はジムクロウ法を禁止する法案を次々と成立させました。
つづくジョンソン大統領は南部出身の大統領ですが、以前から人種差別に反対しており、1964年に公民権法を制定させて、
ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになりました。
キング牧師の演説は中学校の英語の教科書にも使われるほど、有名な演説です。
youtubeにて日本語の字幕付きがありましたので、是非一度はご覧ください。
まとめ
この記事では公民権運動について解説しました。
奴隷解放宣言後、黒人に対する差別は根強く、黒人差別を合法化する法律が制定されていました。
黒人が白人と同等の権利を法律上有したのはたったのここ数十年の話なのです。